「お?」
さも偶然通りかかりました、という雰囲気の割には気配も無く現れた影から、予想通りの声が降って来た。
「どうしたザキ、眠れねェのか」
「…局長」
縁側でぼんやりと月を見上げていた山崎は、やっぱりバレた、と思った。
顔に出したつもりは無かったが、ここ二、三日、後味の悪い任務の所為で少々気が沈んでいた。

総勢百数十名は越える隊士達一人一人のそういった微妙な心の揺らぎを、近藤が一体いつ、どうやって察知するのか、誰にも分からない。おそらく本人も分かっていないに違いない。しかし落ち込んでいる隊士がいると、一人でいる時を狙い澄ましたかの様に、必ずふらりと現れる。

初めて人を斬った隊士。
斬る事に疲れた隊士。
命懸けで任務をこなしながら、冷たい目に晒される事への理不尽に耐えられなくなった隊士。
近藤と話をして初めて、自分の気の沈みを自覚した者もいる。
与えられるそれは真っすぐな言葉であったり、他愛もない雑談であったり、道場での手合わせであったり、時には叱咤であることもある。
その時その人間が一番必要とするそれを、近藤は決して間違わない。
ごまかしも通用しない。普段はバレバレの嘘にも簡単に引っ掛かる近藤だが、それだけに大事の時には言葉で判断しない。
だから山崎は早々に降参した。

「…死に際に女の名前呼ばれると、ちょっとキますね」
基本的に監察の任務中は命のやり取りをしない。それは証拠を残すし、相手の警戒を誘う事にもなるからだ。やむを得ず、の場合は周到に事故に見せかけねばならない。
さりげなく気付かれず、がベストだ。
とはいえイレギュラーの多い仕事だ。情報が漏れる危険性よりは、とっさに口を塞いでしまう方が良い場合もある。そして、監察が相手にする者達は往々にして侍ではなく、情報屋や運び屋や…つまり刀を持たない人間である事が多い。それは、死を覚悟していない人間。

過日、山崎が手にかけた相手はそういう人間だった。
真選組に情報を流しながら、攘夷浪士にも情報を売っていた。
特に珍しい事でも無い。逆にそれを利用する事も考えた。しかし、男が撒き餌として要求する情報は次第にエスカレートし、ついには近藤を暗殺する計画(それだって特に珍しい事でも無いが)の為の情報にまで及び、見過ごす訳にはいかなくなった。
今にして思えば、多少衝動的だったのは否めない。

痛みはほとんど無かったろう。
深夜の路地の暗がりで、男は驚きの表情をわずかに浮かべたまま、女の名を呟き、事切れた。
「罪悪感とは多分違うんス」
死を覚悟していようといなかろうと、そういう危険がある事を承知で、それで金を稼いでいる輩だ。こうした世界での裏切りは、ほとんど死と同義語なのだ。自業自得とさえ言ってしまえる程の不文律。
「でも。たまに。たまにですよ」
自分はそれほど情の深い人間では無いし、真選組以外に対しては、むしろやや冷たい方だろう。そうでなければ監察などやっていられない。相手を騙し、操り、それが周りの人間の人生を狂わせてしまう事があっても、迷えば任務などこなせない。それは自衛を兼ねた、意識して獲得した冷たさとも言える。

それでも。
男が呟いた女の名は。
情人だったのか、妻だったのか、それとも娘だったのか。
自分は一人の人間の命を奪い、本人と、少なくとももう一人分の人生を、おそらく狂わせた。
山崎は、しかし、つらいと呟きかけた最後の一言を辛うじて飲み込んだ。望んで此処にいる自分たちが口にして良い言葉では無い。特に近藤の前では。
もちろん、とうに見抜かれている事なのだ、だからこそ彼は自分の所に来たのだから。
己の不甲斐なさに思わず俯いた視線の先には、明るい月に照らされた、濃い木の影が縁側を覆っている。

「それでいいよ」
落とされた声は優しく、それでいて鋼の強さを宿していた。
その声に促されて顔を上げる。近藤の眼が、真っ直ぐ山崎のそれを捉えた。
「護る為に斬る俺達は、死を悼まなくなったら駄目だ。躊躇を捨てても慣れちゃいけねェ。

眼を逸らすな。

ごまかすな。

忘れるな」

護る為に奪った命を。その矛盾を。
忘れるな、とは近藤が良く口にする言葉だった。
ほとんど唯一とも言える、近藤の決して許さない厳しさ。

「なァ」
能天気な、声。
「護れたものと奪ったものが等価じゃねェとしたら。差し引き分は何処へ行くんだろうな?」
その不条理がさ。
そう言って近藤は少し口の端を上げ、山崎は瞬きをした。
能天気な、顔。そのクセ、こんな事をこの人は考えている。
「そいつは多分、此処に降り積もっていくんだ」
近藤の人差し指が伸びて、とん、と山崎の胸元を軽く叩いた。
「そうして満ちていくものを、強さに変えるか、狂気に変えるか。それは自分次第だ」
「…もしも狂気に変わるなら」
「うん?」
首を傾げる様子は無邪気な子供の様で、だからこそ訊かずにはおれなかった。
「俺を斬ってくれますか」

(その優しい手で)

山崎の胸元に留まっていた手が上がる。
髪の毛を掻き回す動きを予想していた山崎は、次の瞬間、額に強烈な衝撃を受け、勢いで仰け反って先程まで寄りかかっていた後ろの壁に後頭部を強打した。
前と後ろの痛みに悶絶していると、右手の中指で恐るべき破壊力のデコピンをかました本人は思わぬ余録に腹を抱えて爆笑している。
「コレをやるなら後ろに壁がある時に限るな!」
「ちょっ…何すんですか! 痛ったいなもう!」
「お前が自分を信じてなくても。俺が信じてる。心配するな」
そう言った近藤はもう笑っていなかった。
こちらを見据える漆黒の眼。太陽の様なこの人が持つ、夜の色をしたもの。
莫迦で単純で、子供みたいで底抜けのお人好し。何年も共に生き、その人為を見て来た。至極シンプルな気質を持つ、裏表など無い人のはずなのに、この眼の奥底に何があるのか未だに分からない。
「…何か気休めっぽいなあ」
「なにィ? 信じる者は救われるんだぞー」
「それだと救われるのは局長じゃないスか」
「あ、そーか。じゃあ」
近藤は特に気負った風もなく言い放った。
「お前を信じてる俺を、信じてろよ」
山崎はわずかに眼を見開いて、それからすとんと腑に落ちる。
ああ、それなら。

それなら、
信じても、いい。

今度こそ近藤の手は、両手でもって山崎の頭に乗り、優しく容赦無く、くしゃくしゃと掻き回し、そしてその気配は来た時と同様にふと、消えた。
静寂が戻り、山崎は月を見上げた。
先程と何も変わらない。月影は濃く、庭の木々が夜露に濡れて微かに光っている。まるで今起きた事が一瞬の、自分の幻覚だったような。
しかし髪の毛を掻き回した大きな手の感触や、耳の底に残った低く穏やかな声はまぎれもなく、温かみとなって心の奥に灯っている。
深い吐息を一つ吐くと、山崎は音も無く立ち上がり、自室へと向かった。
今夜は、夢も見ないで眠れるだろう。




〈優しい手〉
デコピンの瞬間は、実は多分凄く怒ってる。近藤さんのセリフがリヴァイアサン(笑)の回とちょっと被ってしまった。一応原作読む前に考えてたのでこのまま。